当社の前進は「大竹商店」といい、昭和元年4月に青果の小売店として私の祖父が創業しました。
当時は、大八車に竹の籠を積んで蛇窪(現在でいう二葉町の東光寺あたり)の市場に仕入れに行っていたようです。ほかにも大崎の居木橋あたりにも市場があったと聞いています。
仕入れた品物は、大八車に乗せて店まで運びましたが、現在のように道路が舗装されていたわけでもなく、でこぼこ道を祖母に後ろから押してもらいながらの運搬でかなり大変だったようです。
昭和のはじめ、大井町や五反田のあたりには商店街のようなものがありましたが、祖父の住んでいた大崎・芳水小学校の周りは、空き地や田畑だらけ。軒先に商品を並べていても売れるわけもなく、店番を祖母にまかせて週何回かは近くの工場に働きに出ていたようです。
私の父は、祖父が若くして他界したため、祖母によって田舎(埼玉の栗橋)から働き手として連れてこられたのです。
その後、母と結婚して八百屋を本格的に始めるわけですが、戦時中のことで色々と苦労が絶えなかったときいています。
私の父は、私が19歳の時に他界してしまいました。とても頭の良い人で、生前よく「これからの時代、日本も必ず欧米式のワンストップショッピングの時代になるよ」と言っていました。それは、そのころあちこちにでき始めたスーパーマーケットの台頭を暗示するものだったのです。
当時、商店街はどこも活気があって賑わっていました。荏原中延駅を中心とした半径200メートルのなかに、なんと28店舗もの八百屋がひしめきあうという有様でしたが、それぞれなんとかやっていっていましたから、今から考えるとすごいものがありましたね。
でも、時代の変化が確実にそこまできていると考えたひとは、当時はまだ少なかったのです。
やがて、それは現実のものになりました。商店街がある程度もちこたえられたのは、昭和50年代のバブル時代までで、60年代から年号が平成に代わる頃になると、ますますスーパーは力をつけてきたのです。
昭和46年、私は、島田青果に入りました。その当時、当社はまだ純粋な八百屋さんでした。
私は正直なところ、この八百屋という仕事がいやでいやで仕方がなかったのです。本当は、好きな英語を駆使してアメリカでも行って活躍したいと思っていたのです。父も、私にこの仕事を継がせようとは考えていませんでした。
しかし、父が亡くなったあと、大学を辞めてすぐ商売を継げという話になった時は、母の「お前の好きにしていいんだよ」という言葉に逆に背中をおされたような格好でこの世界に入ってしまいました。 当時、市場は五反田にあった荏原市場、仲卸もなくすべて取引は競売でした。
まず、「符丁(ふちょう)」を覚えなくてはなりません。知らないと皆に馬鹿にされるからです。そして競売です。ほしいものを競り落とさなければ、売る商品が手に入らないので、それは必死でした。でも新参者のわたしに周囲はやさしく、せりが不調であぶれても品物をわけてくれました。古くからいた従業員にも助けられ、八百屋の一歩をふみだしたわけです。